第3トンネル入口 松方正義 扁額「過雨に松色を看る」
第2トンネル出口 西郷従道 扁額「山に随い水源に到る」
疏水・第3トンネル入り口

琵琶湖疎水第 3 トンネル入り口

大津から始まる琵琶湖疎水が御陵近くの第3トンネルの入り口に到る。西洋の城門のようなレンガ造りの入り口が見え、その入り口に「色松看雨過(過雨看松色)」の図太い篆書体が浮かぶ。明治政府の初代大蔵大臣だった松方正義揮毫の扁額である。訓読すれば「過雨(かう)松色(しょうしょく)()る」「雨が過ぎ、鮮やかになった松の緑を眺める」との意味。

色松看雨過

松方正義「色松看雨過」

中国唐代の詩人・劉長卿(りゅうちょうけい)の「南渓に常山道人の隠居を尋ぬ(尋南渓常山道人隠居)」の詩の一節である。「過」は「(ちゃく)」と「()」との組み合わせ。「咼」は亡くなった人のお(こつ)に祈りをささげること。その「咼」に行くの意味を持つ「辵」を加えて、大事な場所を通る時に祈りを捧げることを表す。そこから「大切な場所を通りすぎる」の意味を持つ。のち、通り過ぎるものすべてに用いるようになる。「過雨」は「雨が通り過ぎる」。夏だろうか秋だろうか。雨(夕立or時雨)が通り過ぎた後、松の緑が一段と鮮やかに見えるのである。「松」は「柗」とも書く。枝ぶりが力強い常緑樹の松は、昔からめでたい木とされている。松に神様が降りて来られる気配を描いたのが「 松・パーツ 」とも言われている。「看」は、目の上に手をかざして遠くを見る時のポーズから生まれた字。たしかに「看」の字には目の上に少し変形した手が乗っている。松の鮮やかな緑の色を遠くから目を凝らして見ている人の姿が浮かぶ。

ところで、詩句はこの後、以下のように続く。

「過雨看松色、随山到水源」(過雨に松色を看、山に(したが)い、水源に到る)と。「雨が上がり、さらに鮮やかになった松の緑を眺めながら、山道に従って歩いていくと、水源にたどり着く。」常山道人を尋ねてさらに奥へ奥へと山道を登っていく様子が描かれる。「随」は神様を探し求め、神が降りてこられた場所に肉( 肉・随パーツ)を供えることを表す字で、神に「つきしたがう、したがう」の意味となる。神が天から降りて来られる梯子(はしご)が「阝( 随・はしごパーツ)。「到」は「至( 到・パーツ)」と「人」との組み合わせ。「至」は放たれた矢が到達した地点を指す。そこに「人」が歩み寄れば「人がいたる、到達する」ことになる。「源」は崖の割れ目から水が湧き出す様子から生まれた字。水の流れの始まり=水源を示す。

琵琶湖疎水第 2 トンネル出口

琵琶湖疎水第 2トンネル出口(トンネル内より)

上の写真は琵琶湖疎水第2トンネルの出口を写したもの。この出口の真上に掲げられているのが、西郷隆盛の弟、初代海軍大臣であった西郷従道の扁額である。そこに書かれている言葉が「随山到水源(山に随い、水源に到る)」。まさに、松方正義の扁額の続きの詩句である。松方も西郷も薩摩出身。二人相合わせて、一つの詩句から選んだに違いない。

随山到水源

琵琶湖疎水第 2 トンネル出口

随山到水源2

西郷従道揮毫「源水到山随」

西郷は第2トンネルの出口、松方は第3トンネルの入り口に掲げられた。つながるように並ぶ配置も二人への計らいだった気がしてくる。

松方の扁額を仰ぎ見ながら第3トンネルに入る。吸い込まれるような暗闇の奥にかすかに出口の光が見える。そこはもう京都蹴上。三条実美の扁額が待っている。

過・篆文

(過)

雨・篆文

(雨)

看・篆文

(看)

松・篆文

(松)

色・篆文

(色)

随・篆文

(随)

山・篆文

(山)

到・篆文

(到)

水・篆文

(水)

原・篆文

(原)

*すべて篆文