田邉朔郎の像

蹴上インクラインの坂道を上がって船着き場に着く直前に小さな広場がある。そこにこの田邉朔郎の像が京都の街を見下ろすように建っている。琵琶湖疎水完成の立役者であり、東京遷都によって活気を失った京都再生に、大きな役割を果たした恩人である。

幕末の江戸(東京)に生まれ、工部大学校(東京大学工学部の前身)で最新の技術を学ぶ。在学中に琵琶湖疎水実現のために奔走する京都府知事北垣国道に請われ、明治16年(1893)弱冠21歳で京都府の技師となり、2年後に始まる疎水工事の責任者として、この難関工事の指揮を執ることになる。彼の卓越した技術と不屈の精神が、だれもが想像さえしなかったプロジェクトを完成させたのである。

疎水の完成で、琵琶湖との物流の流れを作っただけでなく、水力を使った蹴上発電所の建設によって、京都の街は近代化を図ることになる。産業の振興はもちろん、市内を走る路面電車の開通も国内初の事業となった。明治23年(1895)、5年の歳月をかけた琵琶湖疎水の開通式を迎える。田邉朔郎28歳であった。その功績に対する顕彰の碑である。

合流トンネルの北口洞門
船着き場の地点には、第1疎水と第2疎水との合流点があり、南禅寺の水路閣を通って北白川に向かう「疎水分線」につながっている。その合流トンネルの北口洞門に田邉朔郎揮毫の扁額がある。

「工人資利水籍(籍水利資人工)」「水利を()りて人工を(たす)く」である。

田邉朔郎揮毫の扁額

琵琶湖疎水資料館の解説によると、意味は「自然の水を利用して人間の仕事に役立てる」こと。出典は明治天皇が開通式に寄せた勅語によるとある。まさに田邉朔郎自身が目指した(こころざし)通りの言葉である。

「籍」は土を(すき)で起こすことをいう。似た字に「しきもの、かりる」の意味を持つ(せき)があり、その字と通じて「かりる」の意味を持つ。「利」は「禾(穀物)」を「刂(刀)」で刈り取ること。刈り取って儲けにすることから「もうける、りえき」の意味となる。「水利」水を利用すること。「資」は「貝」があるように、財貨、「もとで」の意味。何かをするときのもとで(助け)となるものである。「人工」は人為(人間の為すこと)をいう。

「疎水分岐点」は、見落としそうな場所にあるが、ぜひ訪ねて田邉がこの扁額に書きつけた思いを古びた文字の奥に想像してほしい。

この地点から分流した水路と並行する細道を通って、南禅寺の水路閣まで歩くことができる。疎水の流れとともに歩くこの山道は、心満たされる京都の隠れた散歩道でもある。

工

(工)

人

(人)

資

(資)

利

(利)

水・篆文

(水)

籍

(籍)