蹴上インクライン

地下鉄東西線の「蹴上駅」1番出口から地上に出ると「ねじりまんぽ」のトンネルの上を琵琶湖疎水のインクライン(疎水を行き来する船を運ぶレール)が続く。レールだけが残るその傾斜地を登っていくと琵琶湖疎水の船着き場に至り、下っていくと南禅寺船溜(ふなだまり)に至る。船着き場と船溜(市街地)の間に40m近い落差が生じたために、高い地点に着いた船を南禅寺船溜まで地上のレールに乗せて下ろす作業が必要だった。その名残が今もこの場所に残っている。その不思議な空間を一度味わってみるのもいい。

その不思議な傾斜空間を登りきると琵琶湖疎水の京都側の終着点に着く。今は琵琶湖疎水船の旅の乗下船場になっているが、レトロな美しいレンガ造りの旧御所水道ポンプ室が山裾にたたずみ、その奥に第1疎水の第3トンネルの出口が見える。その出口の真上に三条実美の扁額(へんがく)があるはずだが、今は近くまで入って見ることができない。かろうじて「大神宮橋」の橋の上から眺めることができるだけである。上側の写真はその橋の上から写したもの。扁額は柔らかなタッチの篆書体で「河山哉美(美哉山河)」=「美しき(かな)山河」と書かれている。

美哉山河

「美」は大きく立派な羊の形を表す。「哉」は「さい(さい・さい・パーツ)」と「 口・篆文(さい)=口」からできた字。「さい」の「()」は武器の「ほこ」。「十」は戈を清めるための飾り。「戈」が完成すると武器としての力を発揮できるよう清め、祈る儀式が行われた。その祈りの祝詞を入れた箱が「 口・篆文(さい)=口」である。のち、その「哉」が本来の意味を離れて、詠嘆の意味「かな」で用いられるようになった。

「山」は「やま」。「河」は「川」と同じように用いられるが、古くは黄河を指した。黄河は90度に曲がって流れているので、曲がった木の枝を表す「 」の入った「可」が用いられた。ちなみに「江」と言えば揚子江を指した。

1時間程かけて大津からの船の旅を楽しむ。京都蹴上の船着き場について振り向くとトンネルの出口にこの文字が見える。司馬遷の『史記』(呉起列伝)からとった言葉だ。

疎水は人の手で成し遂げられた人工の美だが、それをも包んで日の岡山の自然は新緑の若葉を届けてくれている。実美が願った美しい京都の山河がいつまでも変わらずあり続けますように。

河

(河)

山・篆文

(山)

哉

(哉)

美

(美)