「芦刈山」は四条通を一筋下がった綾小路通西洞院西入芦刈山町にある。山鉾の中心部から南西に位置する。その芦刈山の「飾り家」で古い文字が書かれた立派な二つの箱に出合った。
箱の古さからいってもかなり年季の入ったものである。上側の穴に天秤棒を通して「担ぐ」箱である。中には風炉釜、水差しなどお茶道具一式が入っている。
かつてお茶用具を入れたこの箱を担いで「山鉾巡行」に同伴し、お供の人びとの喉を潤したそうだ。それでこの箱を「荷茶屋」という。
それにしても暑い巡行の季節に御抹茶を点てる茶道具などをなぜ同伴させたのか。
芦刈山飾り家の解説には、「こうしたお茶は神仏にお供えしたお茶の御下がりを、行事の参加者がいただくという宗教行為から始まっています。祇園祭において荷茶屋のお茶を飲むことも、神事の大切な要素の一つなのです」と書かれている。
江戸時代の絵にも残っているそうだが、昔はどの「山」や「鉾」も持っていたそうだ。が、時代が下るに従い次第に使われなくなり蔵の隅で眠ることとなった箱である。保存会の努力のおかげで、こうした祇園祭の歴史を語る貴重な品に出合えるのも山鉾巡りの楽しみの一つである。
さて、それぞれの古代文字の成り立ち。「芦刈山」の「芦」は「蘆」の略字。蘆は沼沢などの水辺に生える茎の長い草。刈り取って簾や垣、屋根を葺く材にされる。「葦」とも書き、「葭」ともいわれる。何とも多様な草である。
古代中国では「蘆」は「魔をよける力」があるとされた。節分の鬼やらいの行事で使われる魔除けの弓は「桃の木」、矢は「葦」で作られた。中国伝説上の女媧は蘆を焼いた灰=「蘆灰」で洪水を防いだ。葦を縄のように編んだ葦索を戸の上に飾れば鬼をとらえることができるとされた。「簾や屋根の材」として使われるのも、邪気が家に侵入するのを防ぐおまじないであったかもしれない。
「刈」の正字は乂(がい)。もとの字はで「はさみ」の形であった。現在の字でいえば「メ」にあたるところである。もとは、草木を刈り整えるという意味であったが、広くことを処理する、おさめるという意味に使われるようになったので、草木を刈り整える意味で使う時には、皙(メ)に「刂(りっとう)」=刀をつけて現在の字とした。
「山」の甲骨文字は。金文(青銅器)は。篆書体は が代表的な字である。木箱に書かれた「山」の字はかなりデザイン化されている。
「芦刈山」は、今年も「山」に真松をすえ、降りしきる雨の中を「蘆刈」の力で邪気を祓いながら細い路地を進んで行った。
(蘆・篆文) |
(葦・篆文) |
(刈・篆文) |
(山・甲骨) |
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