東京での「40周年ディナーショー」で岸田君の歌を聴きながら、40年以上前の大学時代のアパートの一室を思い出していました。4畳半一間の部屋で、こんな歌を作ったけどどうだろうなどと言いながら、歌ってくれた歌、それが「黄昏」という曲でした。あれから、40年以上経って、再びその歌を東京恵比寿のステージの上で聞けるということ。これはもう夢みたいに「幸せ」なことなのだなと改めて思い至りました。私にとっては、若い時作った岸田君の歌は「思い出」とともによみがえるので、特別かもしれませんが、今でも心を揺さぶられる歌が多いなと感じながら聞いていました。

40年経っても引きつける歌の魅力はいろいろあるのでしょうけど、私には40年経っても変わらぬ岸田君の「歌声」にその秘密があるように思います。
岸田君にしか書けない歌詞や曲に、あの声の質が重なって魅力的な「歌」になっている。
若い時と変わらぬ岸田君の「歌声」に、その歌声を維持する「40年間」の努力にも改めて敬意を払いたいと思った次第です。

岸田君の40年経っても変わらぬ魅力は「歌声」。ということで、今回は「歌声」という漢字について取りあげてみます。

歌・篆文

歌/篆文2200年前

可・甲骨

可/甲骨3300年前

「歌」は読み通り、「うったえる」ことから生まれた字です。誰に何を訴えた字なのでしょうか。

字を分解してみると、左側は「可能」の「可」という字が縦に2段に重なり、右側に「欠」 という字が入っています。

二段重ねになった「可」の成り立ちから始めます。「可」は古い文字を見ると「(神様への)願い事を入れた器」= 口・篆文(さい)と 「曲がった木の枝(むち)」= 可(むち)との組み合わせ。「可」の古い字は、「願い事を入れた器を木の枝でたたく形」からできている字です。何のためにしているのかというと神さまに願い事をかなえてもらうために強く迫っているのです。はるか昔の人々は神様にお願いをする時、現在の私たちのようにへりくだってお願いをしなかったのです。「私の願いを聞いてくれなかったら承知しないぞ!」と言って強気で神様に願いの実現を迫ったのです。それに対して神様が「よし、よし、願いをかなえてやろう」と答えてくださる字が「よし、了解、できる」という意味を持つ「可」という字でした。

ところが、「願い事を入れた器」一つではまだまだ「願いはかなえぬぞ」というケースがあるのです。その時はさらに「可」を二つ重ねて強くお願いしたのです。

欠・甲骨

欠/甲骨3300年前

その上、右側に「欠」の字をそえてさらに願いを訴える力を強めたのです。「欠」は古い文字では、人が口を大きく開けて何かを叫んでいる姿です。「欠席」の「欠」の意味ではなく、「欠伸(あくび)」と使う時の(けん)の使い方です。(むち)で願い事を入れた器を叩く形 の「可」を二つ重ね、口を大きく開けて(節をつけて)叫んで願い事の実現を「訴えた」こ とから「歌」という字はできました。

今回のディナーショーで「かえり雛」という歌を紹介されましたが、まさに帰らぬ人に帰ってきてほしいと強く願う思いを歌に託す、文字の成り立ち通りの「歌」でした。

聲・甲骨

聲(声)/甲骨3300年前

聲・篆文

聲(声)/篆文2200年前

「声」という字は古い時代には今より難しい字を使っていました。今の「声」という字の横に「殳(るまた)」と呼ばれる手で木の棒を持つ形の字を書き、その下に「耳」を書く「聲」という字でした。石でできた楽器=殸(けい)を木の棒でたたいた時の音を表す字です。今でいえば、神社で祭りを始める合図に「太鼓」を打ち鳴らすようなものです。神様を呼び出すときに用いる楽器でした。その音を「声」という。後、「人の声」の意味で使われるようになりました。

願いをかなえるために神様にお出ましいただく「声」と願いを聞き届けてもらうために訴える「歌」。成り立ちから言えば「歌声」は、神さま(人々)の心にまで届く声の響きを伴うものでした。

放送日:2017年2月27日