前回に引き続きこの夏訪れた鄭州の古い城壁の話からです。古代中国の街は城壁に囲まれていました。その城壁の大きさは日本の堤防のイメージをはるかに凌ぐものでした。高さ9メートル、幅20メートルもある土の壁は、堤防というよりまるで高速道路のようにそびえ建っていました。その作り方は、土を入れては押し固め、押し固めては上へ上へと積み上げていく「版築」という方法で作られました。人々は、街をぐるっと囲む城壁に守られながら暮らしていました。
(邑/甲骨3300年前) |
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(正/甲骨3300年前) |
(征/金文3000年前) |
さて、街を囲むように作られた城壁(城郭)は、街を表すシンボルとして古代文字では「」のように書かれました。口の形です。一段目の古代文字は、村・街(都市)を表す「邑」という字です。口+巴の組み合わせ。巴は人がひざまずいている姿で、城郭の中に住む人々を表しています。商(殷)の都は「大商邑」と呼ばれていました。
二段目の古代文字(左側)は上が城郭。下が「足あと」の形をしています。城郭と足あととの組み合わせからできた字です。足が街に向かっている様子を表しています。現在の字は「」の形が「止」の形に、「」が一本棒になってしまったので、昔の面影がありません。「正」という字になりました。
正しいとは何か。街に向かう足跡は、軍隊が進軍する姿です。街を征服するために進軍します。街を征服すれば、征服した側が、いつでも「正義」=「正しい」のです。ですから「征服」の「征」(二段目左側)も「ぎょうにんべん」に「正」と書きます。征服した側の司令官を「正」と呼びました。今でも、警視正・検事正などと「正」の字を使う役職が残っています。
司令官が征服した地で最初にすることは「税」をおさめさせることでした。税をおさめさせるのに多少手荒なこともしたのでしょう。それが支配し、統治する「政治」の始まりです。「政」は「正」と「攵(鞭を振り上げた形・のぶん)」からなっています。
最後に、広い城壁の上を行ったり来たりしながら、侵入者がいないかパトロールする兵士たちの様子から生まれた字を紹介します。
(韋/甲骨3300年前) |
それが、城郭()の上下に足跡の形が左向き()と右向き()に描かれています。左回りと右回りで警備をしている人の様子を表しています。それが、「韋」です。「韋」は現代の字でも真ん中に□があってその上下に足跡の形がある形です。
このパーツが入っている字にどんな字があるかわかりますか?
(衛/金文3000年前) |
「行(ぎょうにんべん)」の間に「韋」を入れると「守衛・防衛・前衛」等の「衛」。「まもる」という字になります。人々が住む街は見回りの警備兵によって厳重に守られていたのです。古代文字(金文)は城郭の四方に足跡がついています。
(違/金文3000年前) |
(圍・囲/金文3000年前) |
警備は左回り、右回りと異なる方向にめぐって行われました。ですから、「たがう・ちがう」の意味を持つ「違」という字も生まれました。
囲むという字の旧字体は「圍」。今は口に「井」ですが、昔は口に「韋」でした。「圍」は、警備兵に守られた城郭のある街を別の軍隊が取り囲んで攻めようとしている様子を表しています。街を包囲している様子から「囲=かこむ」という字ができました。
城壁をめぐっていろいろな字が生まれました。それだけ、城壁づくりは古代の人々にとっては重要な大仕事でした。今回3600年も前の鄭州の商(殷)の都の城壁の址を訪ねて、そのスケールに圧倒されました。すべて手作業で作られていった「城壁」にかけられた労力を想像しただけでも、途方もない時間と途方もない人々が動員されたに違いないと感じました。それだけに、あの場所には巨大な権力をもった王朝があったことを、現在に残された城壁の迫力からも伝わってきました。
放送日:2018年8月27日
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